タグ: VOC吸着

  • 新築なのに前の住人の臭いがする謎

    去年の秋、知り合いの不動産業者からこんな話を聞いた。

    「河合さん、新築マンションに入居した客から『前の人の臭いがする』ってクレームが来たんですよ。でも新築ですよ。前の人なんていないんです。」

    最初、私は笑って「それは気のせいじゃないか」と言いかけた。でも途中で止まった。

    待てよ、と。

    実はこれ、笑い飛ばせない話だと気づいたのは、自分がマンションオーナーをやっていたときの経験があるからだ。退去後にリフォームを済ませた部屋に内見に来たお客さんが、ドアを開けた瞬間に「何か……古い感じがする」と言って帰ってしまったことが何度かある。壁は塗り替えた。床も貼り替えた。なのになぜ。

    当時の私は「古い建物だから仕方ない」と思っていた。これが間違いだった。


    石膏ボード、という建材を知っているだろうか。

    日本の住宅の壁の中身は、ほとんどこれだ。クロス(壁紙)の裏に、厚さ数センチの白い板が貼られている。硫酸カルシウムを固めたもので、防火性能があって、安くて、施工もしやすい。非常によくできた材料だ。

    この石膏ボード、実は空気中の水分を吸ったり吐いたりする。「呼吸する壁」と表現されることもある。

    問題はここだ。

    呼吸するということは、空気の中にあるあらゆるものを一緒に吸い込む。湿気だけじゃない。タバコの煙の成分、料理の油分、体臭が混ざった空気中の揮発性物質、要するにVOC(volatile organic compounds)と呼ばれる細かい化学物質も、壁の中にじわじわと取り込まれていく。スポンジが水を吸うように、静かに、何年もかけて。

    で、クロスを張り替えるとどうなるか。

    表面は新しくなる。でも石膏ボードの中に染み込んだ成分はそのまま残っている。しかも新しいクロスを貼った直後は接着剤の揮発もあるし、温度が上がれば壁から成分が「放出」される。モワッと出てくる、あれだ。

    カレーを作った翌日、部屋の壁がなんとなくスパイスの香りをまとっていることがある。あれと仕組みとしては近い。壁が吸って、条件が揃ったら吐く。


    では「新築」の場合はどうか。ここが面白い。

    新築マンションでも、石膏ボードの製造・保管・施工の過程で、工場や倉庫の環境臭が染み込むことがある。木材を使う部分があれば、木の樹脂や接着剤の成分もある。さらに言えば、工事中の職人が数十人単位で数カ月間作業しているわけで、その人たちの体臭や作業服の臭い、昼飯の臭いが、まだ「素の状態」の石膏ボードに吸われ続けている。

    「前の住人の臭い」と感じたものは、前の住人ではなく、壁が建物全体の歴史を吸い込んできた結果だった。

    言い方を変えると、壁はずっと日記をつけていた。

    そこに住んだ人間の記録を、粛々と体内に書き溜めていたわけだ。クロスを張り替えても、表紙を替えただけで中身は変わっていない。

    私がケシサルJapan株式会社を立ち上げた出発点は、まさにこの「なぜ消臭しても戻るのか」という疑問だった。消臭剤で消したつもりが、また出てくる。その繰り返しの正体を追いかけているうちに、壁という存在に行き着いた。

    まだ答えが全部出ているわけじゃない。でも「なんとなく古い感じ」の正体は、想像していたより深いところにあると今は確信している。

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  • 匂い分子は壁のどこに隠れているのか

    去年の夏、天王寺のマンションで孤独死があった。

    特殊清掃の業者が入って、床を張り替えて、壁も一度拭いた。「これで大丈夫です」と言われた。確かにその日はそうだった。

    問題は、夏が終わって秋になったころに起きた。入居希望者を案内したら、「なんか、変な匂いがしますね」と言われた。

    私はその場で固まった。


    あの経験から、「消臭したのにニオイが戻る」という現象をずっと追いかけている。以前は単純に「清掃が甘かったんだろう」と思っていた。拭き残しがあったとか、床下まで染みてたとか、そういう話だと思っていた。

    でも、実はそうじゃなかった。

    匂い分子は、壁の「表面」じゃなくて「中」に入り込む。これが問題の本質だった。


    少し構造の話をさせてほしい。

    一般的な室内の壁というのは、大雑把に言うと「クロス(壁紙)+石膏ボード+断熱材+構造体」という層になっている。要するに、玉ねぎみたいに何枚も重なってる。

    で、匂い分子(専門的にはVOCとか悪臭物質と呼ばれる)は、気体だ。気体は隙間があれば入っていく。パンにバターが染み込むように、壁の層と層の間をじわじわと移動する。

    特に石膏ボードは、湿気を吸ったり吐いたりする素材で、これ自体は建材としてとても優れた性質なのだが、その呼吸する仕組みに、匂いの分子も一緒に取り込まれていく。スポンジが水を吸うのと同じ原理だと思えばいい。

    だから表面を拭いただけでは、中に入り込んだ分子には届かない。


    「じゃあなんで時間が経つと出てくるのか」という話をすると、これは温度と湿度の変化が関係している。

    気温が上がったり、湿度が変わったりすると、壁が吸い込んでいた分子を再放出する。秋になって「変な匂いがする」と言われたあの部屋も、おそらくそういうことが起きていた。

    一度吸い込んだものを、壁が吐き出す。

    これを業界では「再放散」と呼んだりする。要するに「隠れていたものが出てきた」ということだ。


    こう書くと「じゃあ壁を全部剥がすしかないの?」という話になりそうだが、そんな極端な話ではない。匂いがどこにどう潜んでいるかを理解すれば、対処の仕方も変わってくる。

    表面だけを攻めていた時代に戻りたくない、というのが正直な気持ちだ。

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  • 石膏ボードはなぜ匂いを「飲む」のか:VOC吸着の内側

    先月、施工後4年が経過した物件の壁をサンプリングした。

    表面から5mmほどのコアを取り出して、簡易的な加熱脱着にかけてみた。出てきたのは、もうそこに住んでいない入居者が使っていたと思われる柔軟剤の香り成分と、調理由来と思われる油系のにおいの混合物だった。

    「これは想定と違う」と正直に思った。

    壁紙を剥がした下の石膏ボード表面に、4年前の記憶が閉じ込められていた。建材が「履歴」を持つ、という感覚を初めてリアルに理解した瞬間だった。

    吸着とは何か、をもう一度整理する

    VOC(揮発性有機化合物)が建材表面に「吸着する」という言葉を、私はずいぶん長い間、なんとなく使ってきた。でも実際のメカニズムを調べるほど、これが単純な現象ではないことがわかってくる。

    吸着には大きく分けて2種類ある。物理吸着と化学吸着だ。

    物理吸着(physisorption)は、ファンデルワールス力による弱い結合だ。分子間に働く微弱な引力で、吸着した分子は比較的容易に脱着できる。温度を上げたり、周辺濃度が下がったりすれば放出される。

    化学吸着(chemisorption)は、共有結合やイオン結合レベルの強い相互作用だ。一度吸着すると、通常の温度・湿度条件では脱着が起きにくい。

    石膏ボードで問題になっているのは、この両方が同時に起きているということだ。

    石膏(硫酸カルシウム二水和物、CaSO₄·2H₂O)の結晶構造は層状になっており、その表面にはカルシウムイオンと硫酸イオンが露出している。極性を持つVOC分子、たとえばアルデヒド類やケトン類は、これらのイオンと静電的な相互作用を起こす。アルデヒド基(-CHO)は特にカルシウムイオンとの親和性が高いとされている。

    一方、無極性に近い炭化水素系VOCは、石膏表面そのものよりも、紙面材の繊維やボード内部の有機物部分に物理吸着しやすい。

    つまり石膏ボード1枚の中で、化学的な性質が異なる複数の「吸着サイト」が競合しながら存在している。

    多孔質構造という両刃の剣

    石膏ボードの比表面積は、製品グレードによって異なるが、BET法による測定でおよそ2〜10 m²/g程度の範囲にあることが報告されている。

    これは一見、活性炭(500〜1500 m²/g)などの吸着材と比べると小さな数字に見える。しかし建物一棟の内壁・天井に使われる石膏ボードの総質量を考えると、話が変わってくる。標準的な2LDKのマンション一室で、石膏ボードの総使用量は軽く400〜600kgを超える。比表面積が仮に5 m²/gであっても、それだけで2,000〜3,000 m²の吸着面が室内に広がっていることになる。

    そしてここが核心になる。

    この多孔質構造は、石膏ボードが「吸放湿材」として機能する根拠そのものだ。JIS A 6901に規定される調湿機能の仕組みも、この毛細管構造と密接に関わっている。湿度が高いときに水蒸気を吸い込み、乾燥したときに放出する。これが「壁が呼吸する」という表現の実体だ。

    ところが、水分子だけがこの多孔質構造に出入りするわけではない。

    VOCは水より分子量が大きく、一度細孔に入り込むと拡散速度が遅くなる。毛細管凝縮という現象が起きると、VOCは液体に近い状態で細孔内に保持される。この状態になると、単純な換気や乾燥では脱着が進まない。

    吸放湿という長所と、VOC蓄積という弱点が、まったく同じ構造から生まれている。

    私はこのことを「石膏ボードのパラドックス」と呼んでいる。業界がこの矛盾に対してどれほど自覚的かどうか、私にはまだわからない。

    【調べていて気になったメモ①】
    毛細管凝縮が起きる細孔半径はケルビン方程式で推算できる。20℃・相対湿度50〜60%の条件では、おおむね1〜5nm程度の細孔で凝縮が生じる。石膏ボードのこのサイズ域の細孔分布データを持っているメーカーが国内に何社あるのか、私は把握できていない。もしデータがあるなら、ぜひ見てみたい。

    湿度が「ゲートを開く」問題

    ここは私もまだ完全に理解できていない部分だが、湿度とVOC吸着の相互作用について書いておく。

    直感的には、湿度が高い状態では石膏ボードの細孔が水分子で占有されるため、VOCの吸着が抑制されるように思える。競合吸着の考え方だ。

    ところが実測データを見ると、これが単純にそうならないケースがある。

    ホルムアルデヒドを例にとると、相対湿度50%前後の条件で吸着量がピークに近くなるという報告がいくつかある。高すぎても低すぎても吸着効率が落ちる。湿度が低すぎると、石膏表面のイオンサイトが「乾いた」状態になってアルデヒドとの相互作用が変化するのかもしれない。湿度が高すぎると、水分子が先にサイトを埋める。どこかに「最も吸いやすい湿度域」が存在するようだ。

    あ、これは余談だけど、この話を最初に読んだとき、私は農業の「畑の保水性と養分吸収の関係」を思い出した。水が多すぎると根が養分を吸えなくなる、というあの話だ。まったく違う世界の現象が、なんとなく同じ構造を持っているように感じることがある。

    話を戻すと、つまり梅雨明け直後のような「湿度が急激に変化する」タイミングで、石膏ボードのVOC吸放出挙動が変動する可能性がある。「梅雨が明けたら急に部屋がにおうようになった」という入居者の訴えが時々あるが、これがその一因である可能性を私は疑っている。

    【調べていて気になったメモ②】
    ASHRAE 62.1では室内空気質の換気基準が定められているが、建材からの「再放散(re-emission)」についての扱いは今のところ限定的だ。ISO 16000シリーズもVOC放散の測定手順を定めているが、長期蓄積後の再放散挙動を標準化した試験方法はまだ確立されていないと理解している。つまり「建材が将来どれだけ吐き出すか」を事前に評価する共通の尺度が、現時点では存在しない。

    「吸った後」のことを誰も語らない

    VOC規制の話題になると、建材メーカーも施工業者も「放散量」の話をする。F☆☆☆☆(フォースター)基準がその代表だ。JIS A 1460に基づくデシケーター法でのホルムアルデヒド放散量。これは新築・施工直後の放散量を測る指標だ。

    しかし、施工から1年、2年、4年と時間が経過したボードが、内部に何を蓄積し、何をいつ放出するか。その挙動を規定する指標は、現行の規格体系の中に存在しない。

    最初に書いた「4年後のサンプリング」の話に戻る。

    4年前の柔軟剤の成分が壁の中にいた。それは「建材は竣工時の化学的状態を維持し続ける」という暗黙の前提が間違っている、ということを示している。

    石膏ボードは使用されるうちに、居住空間の化学的な「記憶媒体」になっていく。入居者が変わっても、その前の生活の痕跡が壁の中に残る。

    「吸放湿材として優れている」という評価と、「VOCを長期間蓄積する」という事実は、分けて語ることができない。同じものだからだ。

    この問題を「壁紙の防臭コーティングで対処する」という方向性では、根本的な解決にならない。なぜなら問題はボードの表面ではなく、内部の多孔質構造そのものにあるからだ。コーティングは「入口」を変えるかもしれないが、「構造」は変わらない。

    既存の手法がなぜ根本的に機能しないのか。それはアプローチのレイヤーが間違っているからだ、と私は考えている。ただし、では何がそれに替わるのか。そこについては、私の手元にある情報と思考だけでは、まだ答えが出せていない。


    次に調べたいのは、石膏ボードの製造プロセスにおける焼成温度と細孔分布の関係だ。半水石膏(CaSO₄·½H₂O)が二水石膏に戻る再水和のプロセスで、細孔の「形状」がどう決まるのか。そこに、吸着特性の設計可能性があるとすれば、話は別の局面に入る。そこまで見えたとき、このノートの続きが書けると思っている。

    この研究について情報交換・ご連絡は keshisaru-g@keshisaru.com まで。