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  • 壁の中身はスポンジより細かい——ナノの穴の話

    去年の夏、大阪市内で管理しているマンションの一室に入った瞬間、モワッとした。

    空室のはずなのに、なんというか、前の住人がまだそこにいるような感覚。エアコンをつけても、換気してもなかなか消えなかった。

    「壁を拭けば取れるだろう」と思っていた時期が、私にも長かった。表面を綺麗にすればいい、と。でも実際は全然違った。


    壁紙の裏に石膏ボードがある。これは知っている人も多いと思う。ではその石膏ボードの中身がどうなっているか、考えたことはあるだろうか。

    石膏という素材、要するに硫酸カルシウムという鉱物を固めたものなのだが、これが固まる過程でものすごく細かい穴が無数にできる。スポンジの穴ではない。ナノメートル単位の穴だ。

    1ナノメートルというのは、1ミリの百万分の一。そんな穴が壁の中にぎっしりある。

    要するに、家の壁はミクロで見ると穴だらけの構造をしている。


    これを知ったとき、私が最初に思ったのは「海綿(かいめん)みたいだな」だった。水族館で見るあの生き物。あれも全身が無数の小穴でできていて、水をどんどん取り込む。石膏ボードはそれのもっと細かいバージョン、と思えばイメージしやすい。

    そしてこの穴が、湿気を吸ったり吐いたりする。「呼吸する壁」なんて言い方もする。湿度が高い日は吸って、乾燥した日は吐き出す。これ自体はすごく良い機能で、快適な住環境を作る一因にもなっている。

    ただ。

    ここが面白いところなのだが、壁が吸い込むのは水分だけじゃない。


    においの分子も、一緒に吸い込む。

    タバコ、料理、体臭、そしてもっと強烈なもの。あのモワッとした空気の中に漂っていたものが、少しずつ、少しずつ壁の奥に入り込んでいる。

    表面を拭いても消えない理由が、ここにある。拭けるのはあくまで「表面」だけ。ナノの穴の中に入り込んだものには、普通の方法では届かない。

    「よし、これで取れたはず」と何度思ったか。そのたびにしばらくして臭いが戻ってくる。あの感覚が、今は説明できる。


    壁は「面」じゃない。「塊」だ。ナノの穴を持った、奥行きのある塊。そう思い直してから、ニオイの問題への向き合い方がガラッと変わった。

    ケシサルJapan株式会社で研究を続けているのも、結局はその「奥」にどうアクセスするか、というところに尽きる。それだけの話なのだけど、これがなかなか難しい。

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  • リフォームしても臭いが戻る本当の理由

    去年の夏、堺市のマンションで現場確認をした。

    孤独死のあった部屋で、オーナーさんが特殊清掃業者に頼んで、仕上げにリフォームまでやっていた。壁紙を全部張り替えて、床も貼り直して、費用は80万近くかかったと聞いた。

    それでも、夏になると臭いが戻ってきた。

    「リフォームしたのに、なぜ」というのが、オーナーさんの最初の言葉だった。私もマンションをいくつか持っていたので、この感覚はよくわかる。以前は私も「壁紙を替えれば解決する」と思っていた。完全に間違いだった。

    壁紙の裏には、石膏ボードというものがある。

    読んで字のごとく、石膏(硫酸カルシウム)でできた板だ。軽くて火に強くて、日本の建物のほぼどこにでも使われている優秀な素材だ。この石膏ボード、実は「呼吸している」。湿気を吸ったり吐いたりする性質がある。それが断熱や調湿に役立っているわけで、本来は長所だ。

    ただ、そこに落とし穴がある。

    臭いの原因になる分子——腐敗臭の成分や揮発性の化学物質、VOCと呼ばれるもの——は、石膏ボードに湿気と一緒に少しずつ吸い込まれていく。要するに、壁の中に臭いが染み込んでいく、ということだ。スポンジに醤油がしみるのと似ている。表面を拭いても、しみた中のものは残る。

    壁紙を替えることは、そのスポンジの表面に新しいラップを貼ることに近い。

    だから、冬は大丈夫だった、という話をよく聞く。夏になったら戻ってきた——これは気温が上がって石膏ボードが吸っていたものを吐き出し始めるからだと考えられる。「よし、これで終わった」と思っていたのに、蒸し暑くなった途端にモワッと戻ってくる。あの感覚を経験したオーナーは何人もいる。

    では、壁を全部剥がせばいいか。

    現実的には無理だ。費用がかさむし、構造に関わることもある。だいたいのリフォーム業者は「もう一度張り替えますか」くらいしか提案してくれない。それで解決した話は、私の周りでは聞いたことがない。

    このあたりが、消臭というテーマのいちばん厄介なところだと私は思っている。表面だけきれいにしても、臭いの根っこが壁の中に残っている限り、季節が変わればまた出てくる。

    ケシサルJapan株式会社でこの問題を研究し始めたのも、もともとは自分のマンションで同じことを経験したからだ。10年以上、「なぜ戻ってくるのか」を考え続けている。答えはまだ全部出ていないと思っている。

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  • あなたの家の壁は何十年分の記憶を持っている

    去年の秋、大阪市内の築32年のマンションを内見したときのことだ。

    玄関を開けた瞬間、何とも言えない空気が来た。カビでもない。腐敗でもない。でも確かに「人が長く住んでいた場所の匂い」がした。リフォーム済みで壁紙は真っ白だったのに。

    あのとき私は「壁紙を替えたのに、なぜ?」と思った。
    今なら答えられる。


    壁紙の下には石膏ボードがある。日本の住宅の内壁のほとんどがそうだ。この石膏ボードという素材、実は「呼吸する」。湿気を吸ったり放したりする性質を持っていて、それが快適な室内環境をつくる立役者でもある。

    でも。

    呼吸するということは、空気中を漂うものを一緒に吸い込むということでもある。

    料理の油煙、タバコの煙、汗の蒸気、ペットの体臭、人が毎日呼吸して吐き出すもの。それらが何年も、何十年も、ゆっくりと壁の内側に蓄積されていく。要するに、壁はその家で起きたことを、空気の形で記録し続けているということだ。

    スポンジを想像してほしい。使い古したスポンジを水で洗っても、長年染み込んだ油の匂いは消えない。石膏ボードがやっていることは、あれとよく似ている。


    以前の私は「消臭といえば表面に吹き付けるもの」だと思っていた。マンションオーナーをやっていた頃、退去後の部屋に市販の消臭スプレーをかけて「これで大丈夫」とやっていた時期がある。恥ずかしながら、本当に信じていた。

    でも、また匂いが戻ってくる。
    何度やっても、戻ってくる。

    「よし、これで合ってるはず」と何度思ったか分からない。それが全部、壁の内部に残ったものが再び放出されていたせいだと気づくのに、かなりの時間がかかった。

    壁紙を剥がしても、塗料を塗っても、表面を変えても、石膏ボードの内部に染み込んだ分子はそのまま残る。新しい壁紙は匂いを封印しているだけで、条件が揃えばまたモワッと出てくる。夏場に室温が上がったとき、梅雨で湿度が高くなったとき。壁が「記憶を放出する」タイミングがある。


    ここで一つ、聞いてみたい。

    あなたの家の壁は、何年前に建てられたものか、把握しているだろうか。

    築10年なら10年分。築30年なら30年分。毎日その家で暮らした人たちの、ありとあらゆる生活の痕跡が、壁の内部に層になって積み重なっている。それはリフォームで見た目が変わっても、簡単には消えない。

    消臭の問題を表面だけの話だと思っていると、いつまでも匂いが戻ってくる理由が分からないまま終わる。私がそうだったから、断言できる。

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  • 壁1㎡の中に、東京ドーム何個分の穴が開いている

    先月、堺市のマンションで壁紙の張り替え工事に立ち会った。

    職人さんが石膏ボードの断面をカッターで切ったとき、断面がものすごく細かい粒粒で構成されているのが見えた。砂糖を固めたような感じ、とでも言えばいいか。「これ、スカスカじゃないですか」と思わず声に出してしまった。

    以前は、壁というのは「固体の板」だと思っていた。触れば硬いし、叩けばコツコツ鳴る。固体=隙間がない、という思い込みが自分の中にずっとあった。

    でも本当にそうなのか?

    石膏ボードを顕微鏡レベルで見ると、無数の微細孔が走っている。要するに、表面は「面」ではなく「穴だらけのスポンジ状の構造」だということだ。平らに見えているのは目が粗いだけで、ミクロで見れば洞窟が密集している。

    では、壁1㎡の本当の表面積はどれくらいか。

    材料科学の研究では、多孔質素材の「真の表面積」は外から見える面積の数万倍から数十万倍になることがある。計算の仮定によって数字は変わるが、石膏ボード1㎡の真の表面積が数千㎡に達するという話は、素材の世界では珍しくない。

    東京ドームのグラウンド面積が約1.3万㎡。

    つまり壁1枚の中に、それに匹敵するような表面積が折り畳まれている可能性がある。「かもしれない」と書きたいところだが、数字の桁が合っているのだから、事実として向き合うしかない。

    カステラを想像してほしい。外から見れば長方形の一塊だが、断面には無数の気泡がある。あの気泡の内壁をすべて広げたら、外から見た表面積の何倍になるか。石膏ボードで起きているのはそれと同じことで、しかも気泡の大きさがカステラより遥かに小さい分、表面積の倍率はケタ違いになる。

    「で、それが何なの?」と思う人がいるのはわかる。

    匂いの分子は、この無数の穴に入り込む。

    タバコのヤニでも、孤独死の現場のニオイでも、揮発した成分は空気中を漂った後、行き場を求めてこの微細孔に潜り込む。表面積が大きいほど、吸い込める量も増える。東京ドーム何個分の内壁に、ニオイの分子が貼り付いているとしたら——消臭スプレーを壁の表面にシュッとかけるだけで解決しようとしていた自分が、いかに的外れだったか。

    「よし、これで消えたはず」と思っていた。何度も。

    そのたびに数日後にモワッと戻ってくる理由が、今はわかる。

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  • 建材別BET比表面積の比較:土壁・石膏ボード・珪藻土

    比表面積という概念を初めて真剣に考えたのは、もう20年以上前のことだ。

    当時、ある古い旅館で「部屋に入った瞬間から匂いが違う」という体験をした。土壁仕上げの純和室だった。それまで私は「土壁は調湿するから快適なんだ」という説明を何となく受け入れていたが、その日から「調湿する、とはどういうことを分子レベルで言っているのか」という問いが頭から離れなくなった。

    BET法という測定手法がある。窒素ガスの吸着量から固体表面の実質的な面積を計算する方法で、1938年にBrunauer、Emmett、Tellerの3人が発表した。単位はm²/g。つまり「1グラムの中に何平方メートルの表面が隠れているか」を表す数字だ。

    この数字を建材に当てはめたとき、私は自分が思っていたよりずっと複雑な世界を見ることになった。

    数字を並べてみる

    先に概数を書いておく。

    土壁(荒壁・中塗り程度の伝統的な土壁)のBET比表面積は、使用する土の種類によってばらつきがあるが、おおむね30〜80 m²/g程度の範囲で報告されている。主成分であるモンモリロナイトやイライトといったスメクタイト系粘土鉱物の比表面積が高いため、この値が出る。

    珪藻土は、珪藻の殻(シリカ質)が堆積した素材だから、その多孔質構造はもともと生物が作ったものだ。壁材として使われる珪藻土の比表面積は20〜60 m²/g程度とされている。ただしこれは珪藻土原料の値であり、バインダーの添加や焼成処理によって大きく変動する。市販の珪藻土壁材では原料よりかなり低い値になっているケースが多い。

    そして石膏ボード。焼石膏を再水和したβ型二水石膏(CaSO₄・2H₂O)の結晶が主体で、BET比表面積は1〜5 m²/g程度という報告が多い。

    「やはり石膏ボードは低いのか」と思われるかもしれない。ここで少し立ち止まってほしい。

    「低い」のに「吸う」のはなぜか

    石膏ボードの調湿性能は、JIS A 6901の規定でも認められており、実測でも確認されている。吸放湿量は24時間で30〜40 g/m²前後という値が教科書的には引用される。

    比表面積が土壁の10分の1以下なのに、なぜ石膏ボードはこれほど水分を動かせるのか。

    答えは結晶水にある。β型二水石膏は、その結晶構造の中にチャンネル状の空隙を持ち、水分子が比較的自由に出入りできる「動的な水」を内包している。BET法で測定される窒素吸着量は表面積を反映するが、水分子にとっての「入り口」の数は、窒素分子が感知する表面積とは別の話だ。

    つまり、比表面積が低い=吸湿しない、ではない。

    石膏ボードは「表面積では不利だが、結晶内部の水輸送メカニズムで補っている」素材だと私は理解している。これは正直、建材科学の中でも面白い特性の一つだと思う。

    【調べていて気になったメモ】
    β型二水石膏のチャンネル構造については、粉末X線回折とMAS-NMRを組み合わせた研究がいくつか出ているが、建材スケールでの水分移動との定量的な対応関係は、まだ文献によってばらつきがある。特に高湿度域(RH80%超)での挙動は、低〜中湿度域とは異なるメカニズムが関与している可能性が示唆されているが、ここは私もまだ完全に理解できていない部分だ。

    珪藻土の「見かけ」問題

    珪藻土について、もう少し書かせてほしい。

    珪藻土は近年、壁材として非常にポジティブに語られることが多い。「自然素材」「高い調湿性」「VOC吸着」——これらは全て、原料としての珪藻土が持つポテンシャルに基づいた説明だ。

    しかし実際の壁材製品になると話が変わる。

    あ、これは余談だけど、私が珪藻土壁材に強い関心を持ち始めたのは、ある住宅で「珪藻土を塗ったのに匂いが取れない」というクレームを聞いたことがきっかけだった。最初は施工不良を疑ったが、調べていくうちに素材の問題に行き着いた。

    珪藻土の細孔構造は、主にナノレベルからマイクロレベルの細孔が混在している。しかしバインダー(合成樹脂系が多い)を加えると、細孔が物理的に塞がれてしまう。実際、市販珪藻土壁材のBET比表面積を測定した研究では、原料珪藻土の1/5〜1/10程度まで比表面積が低下しているケースが報告されている。

    これは「珪藻土壁材」を名乗る製品が悪い、という話ではない。施工性や耐久性を確保するためにバインダーは必要だ。ただ、「珪藻土だから高調湿・高吸着」という図式が、素材の原料スペックと市販品スペックの間の大きなギャップを無視している場合がある、ということは認識しておく必要がある。

    比表面積が「効く」分子と「効かない」分子

    ここからが、私がこのブログ「封印ラボ」で長く追い続けているテーマに近づいてくる。

    水分子(H₂O、分子径 約0.28 nm)と、代表的な悪臭成分・VOCの分子径を比べると、例えばアンモニアで約0.26 nm、アセトアルデヒドで約0.5 nm、トルエンで約0.6 nm程度だ。

    石膏ボードの比表面積は低い。しかし水分を動かす。

    では、悪臭成分やVOCはどうか。

    「水分子は通せるが、大きな分子は通せない」——そう言いたいところだが、現実はそれほど単純ではない。実際には石膏ボードもアルデヒド類を吸着することが分かっている。問題は吸着した後の話で、高湿度条件下では水分子が競合吸着して、一度取り込んだ揮発性成分が再放出されやすくなる可能性がある。

    土壁の場合、比表面積は高いが、粘土鉱物の親水性も高い。だからやはり高湿度での競合放出が起きうる。

    【調べていて気になったメモ】
    粘土鉱物の水・有機分子競合吸着については、土壌汚染分野の研究が建材分野より蓄積が多い。農薬成分の土壌吸着・脱離を扱った研究から逆算すると、建材内部でも似たメカニズムが起きているはずなのだが、建材の実使用環境(温度・湿度の季節変動あり)での検証データは意外に少ない。

    比表面積が高ければ「吸って封じ込める」わけではない。吸着の可逆性をどう制御するか、という問題が残る。

    これは土壁にも珪藻土にも石膏ボードにも共通した課題だ。

    そして正直に言えば、この3つの建材の中でどれが「吸着した匂い成分を最も再放出しにくいか」という比較研究は、私が知る限り、体系的に行われたものをまだ見つけられていない。条件を揃えた上での比較——同じ温湿度サイクル、同じ試験ガス濃度、同じ測定期間——でやった研究があるなら、ぜひ読みたい。

    数字の向こうにある設計の問題

    BET比表面積という数字一つを見ていても、建材の匂い・空気質への関与は分からない。吸着等温線の形(特にLangmuir型かFreundlich型か)、細孔径分布、表面の化学的性質(親水・疎水のバランス)、そして使用環境での温湿度変動——これら全てが絡み合っている。

    「比表面積が高い=良い素材」という単純化は危険だ、と私は思っている。

    一方で、比表面積を全く無視して「調湿性能がある」と言うことも正確ではない。数字はあくまで入口に過ぎないが、入口を無視すると話が宙に浮く。

    石膏ボードについていえば、比表面積の「低さ」は欠点ではなく、結晶構造由来の別の吸着機構との組み合わせで理解すべき数字だ。私はこの素材をそういうものとして見ている。

    次に調べたいのは、石膏ボードの細孔径分布と水蒸気吸着等温線の形状について、もう少し詳しく掘り下げることだ。特にRH60%を超えた領域でのヒステリシスの大きさが、悪臭成分の再放出挙動とどう相関しているか——そこに、この問題を考えるための重要な手がかりが隠れているような気がしている。

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  • 封じ込めるとはどういうことか——壁の中で何が起きているのか

    去年の夏、天王寺のマンションで原状回復の立ち会いをした。退去から3週間経っていた部屋だった。

    ドアを開けた瞬間、モワッとくる。

    クロスは張り替え済み。床も新しい。なのにニオイだけが残っている。業者さんが「施工はちゃんとやりましたよ」と困った顔をして言う。そこで私も「そうですね」と答えながら、心の中では「じゃあなんで臭いんだ」とずっと思っていた。

    あれは10年以上前の話だ。当時の私は「封じ込め=新しい層で覆う」だと思い込んでいた。クロスを剥がして、新しいのを貼れば解決する。そういう理解だった。今から思えば、完全に間違えていた。

    「封じ込める」とは何か、と改めて考えると、これがけっこう深い話になる。

    料理で言うと、においの強い食材をラップで包むとする。ラップが薄ければ、においは少しずつ透過する。完全に封じ込めるには、においの分子がそのラップの隙間を通り抜けられない状態を作らないといけない。材質と厚みと、密着度。この三つが揃って初めて「封止」になる。

    壁も、同じ話だ。

    臭気の発生源があったとして、その上からクロスを貼っても、クロスという素材にはそもそも透過性がある。特に布クロスは論外として、ビニールクロスでさえ長期的には分子レベルの移動が起きる。要するに、「見た目を覆うこと」と「ニオイを止めること」はまったく別の話なのだ。

    じゃあ何が本物の「封止」なのか。

    物理的封止という考え方がある。発生源そのものを、においの分子が通過できない素材で物理的に閉じ込める。ここが概念として面白くて、「ニオイを消す」のではなく「ニオイを出さなくする」という発想の転換がある。消臭と封止は、そもそも目的が違う。

    以前の私はここを混同していた。消臭剤を吹いて、クロスを貼れば「対処した」と思っていた。でも発生源が壁の内側にある限り、それは蓋をしただけで、しかも蓋の素材がニオイを止められていない状態だった。当然、しばらくすれば戻る。

    「なんで戻るんだ」と当時は業者のせいにしていた部分もある。正直に書く。今なら分かる。戻るのは当たり前だったのだ。

    壁の内側で何が起きているか、を考えずに「表面だけ綺麗にした」状態では、封止にならない。そういう現場を、私はオーナーとして何度も経験してきた。そしてその経験が、今ケシサルJapan株式会社でやっている研究の出発点になっている。

    物理的封止の具体的なメカニズムと、素材の選び方については、別の研究記事に書いてある。

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  • 匂い分子は壁のどこに隠れているのか

    去年の夏、天王寺のマンションで孤独死があった。

    特殊清掃の業者が入って、床を張り替えて、壁も一度拭いた。「これで大丈夫です」と言われた。確かにその日はそうだった。

    問題は、夏が終わって秋になったころに起きた。入居希望者を案内したら、「なんか、変な匂いがしますね」と言われた。

    私はその場で固まった。


    あの経験から、「消臭したのにニオイが戻る」という現象をずっと追いかけている。以前は単純に「清掃が甘かったんだろう」と思っていた。拭き残しがあったとか、床下まで染みてたとか、そういう話だと思っていた。

    でも、実はそうじゃなかった。

    匂い分子は、壁の「表面」じゃなくて「中」に入り込む。これが問題の本質だった。


    少し構造の話をさせてほしい。

    一般的な室内の壁というのは、大雑把に言うと「クロス(壁紙)+石膏ボード+断熱材+構造体」という層になっている。要するに、玉ねぎみたいに何枚も重なってる。

    で、匂い分子(専門的にはVOCとか悪臭物質と呼ばれる)は、気体だ。気体は隙間があれば入っていく。パンにバターが染み込むように、壁の層と層の間をじわじわと移動する。

    特に石膏ボードは、湿気を吸ったり吐いたりする素材で、これ自体は建材としてとても優れた性質なのだが、その呼吸する仕組みに、匂いの分子も一緒に取り込まれていく。スポンジが水を吸うのと同じ原理だと思えばいい。

    だから表面を拭いただけでは、中に入り込んだ分子には届かない。


    「じゃあなんで時間が経つと出てくるのか」という話をすると、これは温度と湿度の変化が関係している。

    気温が上がったり、湿度が変わったりすると、壁が吸い込んでいた分子を再放出する。秋になって「変な匂いがする」と言われたあの部屋も、おそらくそういうことが起きていた。

    一度吸い込んだものを、壁が吐き出す。

    これを業界では「再放散」と呼んだりする。要するに「隠れていたものが出てきた」ということだ。


    こう書くと「じゃあ壁を全部剥がすしかないの?」という話になりそうだが、そんな極端な話ではない。匂いがどこにどう潜んでいるかを理解すれば、対処の仕方も変わってくる。

    表面だけを攻めていた時代に戻りたくない、というのが正直な気持ちだ。

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  • 乾式工法が日本を変えた日

    去年の秋、堺市の築38年マンションを売却するために内見準備をしていた。

    リフォーム業者と壁を叩きながら回っていたとき、職人さんが「ここ、石膏ボードですわ」と言った。「あ、そうですか」と答えながら、私は正直そのとき何も考えていなかった。

    石膏ボード。当たり前すぎて、疑問に思ったことすらなかった。

    でも後から調べたら、あの「当たり前」が生まれたのは、ほんの50〜60年前の話だと知った。


    昔の日本の内壁は「湿式工法」といって、左官職人が泥や漆喰を何層にも重ねて塗り上げるものだった。乾くまでに何日もかかる。湿気を吸って、吐いて、呼吸する壁だ。手間がかかる分、職人の技術と時間がそのまま壁に詰まっていた。

    それが高度経済成長期に変わった。

    「乾式工法」の登場だ。要するに、あらかじめ工場で作ったパネル(石膏ボードが代表格)を現場で貼り付ける工法のこと。乾かす時間がいらない。職人の腕に左右されない。早い、安い、均質。そういう話だ。

    住宅の大量供給が求められた時代に、これは革命だったのだと思う。


    以前の私は「壁なんて、どれも同じようなもの」と思っていた。

    マンションを買うとき、売るとき、ニオイの問題が起きたとき、壁の「素材」そのものを気にしたことがなかった。でも今は違う。特殊清掃の現場を10年以上経験してきて、ようやく気づいた。ニオイが消えない部屋と消える部屋の差は、清掃の腕だけじゃない。壁の素材と構造に関係している場合がある。

    石膏ボードはスポンジに似ている。

    水分を吸う。ニオイの成分も吸う。表面だけを拭いても、ボードの内部に染み込んだものは取れない。風呂のスポンジを外側だけ絞っても、中がじっとり重いままなのと同じだ。

    乾式工法の壁が「早く、安く、均質に」作れる一方で、こういう弱点も一緒に抱えている。


    「よし、消臭した。合ってるはず」と思った翌週に、モワッとニオイが戻ってくる。

    あの不思議な現象の一端が、実は壁の工法と素材に隠れていたとしたら——。

    私はこの数年、そこをずっと考えている。

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  • 匂い放出の引き金:温度・湿度・気圧が石膏ボードを「しゃべらせる」条件

    梅雨入り直後の6月、管理しているマンションの空き室を久しぶりに開けた。

    廊下に一歩入った瞬間、ある種の刺激臭があった。締め切っていた期間は3週間ほど。前回の入室時には何も感じていなかった。換気をすれば30分で消える程度のものだったが、「なぜ今日だったのか」という問いが頭から離れなかった。

    気象庁のアーカイブで確認すると、その日の午前中は低気圧の通過に伴って気圧が996hPa前後まで下がっており、室内湿度は推定で80%を超えていた。外気温は26℃台。前日比で気温が5℃近く上昇していた。

    偶然の観察だったが、これが「匂い放出の引き金」を考え始めたきっかけだった。

    石膏ボードが「吐き出す」というのは比喩ではない

    建材の匂い問題を調べていると、「吸着・放散」という言葉に頻繁に出会う。VOC(揮発性有機化合物)や悪臭成分が建材に吸着し、条件が変わると放散する、という現象の総称だ。

    石膏ボード(主成分:硫酸カルシウム二水和物 CaSO₄・2H₂O)の多孔質構造は、吸放湿性という観点では建材として優秀な性質を持っている。JIS A 6901に規定される石膏ボードの吸放湿性能は、室内湿度の安定に実際に寄与しており、これは業界として誇るべき長所だ。

    しかし同じ多孔質構造が、水分子だけを選別して吸い込むわけではない。

    空気中に漂う揮発性成分——調理由来のアルデヒド類、タバコ煙のニコチン・アンモニア誘導体、ペット由来のアミン系化合物——これらも同様にボード内部の細孔に侵入し、蓄積する。細孔径の分布は数nmから数十μmにわたり、分子サイズの小さなVOCは特に深部まで到達しうる。

    問題は、この「蓄積した成分」がどんな条件で外に出てくるか、だ。

    温度・湿度・気圧、それぞれの「引き金」としての働き方

    この3つの環境変数は、それぞれ異なるメカニズムで匂い成分の放出を促す。整理するとこうなる。

    温度の影響:脱着エネルギーの問題

    吸着された分子が表面から離れるには、活性化エネルギーを超える必要がある。温度が上昇すると分子の熱運動が活発になり、弱い物理吸着(ファンデルワールス力による吸着)の状態にある成分から順に脱着が始まる。

    室温10℃の冬場に静かだった部屋が、夏場に急に「臭くなる」という報告は複数の入居者から受けてきた。これは感覚の問題ではなく、温度上昇による脱着促進がほぼ確実に関与している。石膏ボード表面の温度が30℃を超え始める時期と、苦情の季節性は一致している。

    湿度の影響:競合吸着と置換放出

    ここが最も複雑で、私もまだ完全に理解できていない部分だ。

    湿度が上昇すると、石膏ボードは水分を吸着しようとする。この水分子が既存の吸着サイトを「奪う」形で、先に吸着されていたVOCや悪臭成分が追い出される——という置換放出のメカニズムが考えられる。

    実際、梅雨入り直後や台風接近時に「急に匂いが出た」という報告は複数ある。湿度が60%台から80%台へ急上昇した際の現象として記録している。

    ただし逆の報告もある。乾燥した冬場に「臭くなった」というケース。これは乾燥により水分子が細孔から離れ、奥に閉じ込められていた成分が移動しやすくなる——という別のメカニズムかもしれない。湿度の影響は単純な一方向ではない。

    【調査メモ】細孔内の吸着競合については、BET法による比表面積測定のデータが重要になると思われる。石膏ボードの比表面積は文献によって数値にばらつきがあり、測定条件(使用ガス種:N₂かCO₂か)によっても大きく変わる。特に細孔径2nm以下のミクロ孔の寄与をどう評価するか。ここは実測値のある論文を探しているが、建材分野での系統的なデータはまだ見つけていない。

    気圧の影響:これが一番見落とされている

    温度と湿度については建材の吸放散研究でも言及されることがある。だが気圧変化による放出促進は、ほとんど議論されていない。

    気圧が低下すると、建材内部の細孔に閉じ込められた気体成分は膨張しようとする圧力差が生まれる。1013hPaから990hPa程度への低下は約2.3%の気圧変化だが、閉塞した細孔内では有効に働く可能性がある。

    「低気圧が来ると関節が痛む」という感覚報告と同様に、「低気圧の日に部屋が臭い」という感覚報告は複数のマンションオーナーから聞いたことがある。これを「気のせい」と切り捨てるのは早計だと思っている。

    あ、これは余談だけど——自分でこのメモを書いていて、気象病の研究者と建材の研究者がこれまで対話したことがあるのかどうか、ふと気になった。分野が完全に分断されているとしたら、もったいない気がする。

    「複合条件」という本当の問題

    温度・湿度・気圧を個別に考えるのは分析の第一歩にすぎない。

    実際の住環境では、これらは同時に変動する。梅雨の低気圧通過時には「気圧低下+高湿度+気温上昇」が同時に起きる。これは匂い放出の引き金が3本同時に引かれる状態だ。

    「これは想定と違う」と感じたのは、各変数の単独影響よりも、変化の速度と方向性の組み合わせの方が重要かもしれないという点だ。

    たとえば、「気温が高い状態が続く」よりも「急激に気温が上昇した瞬間」の方が放出が激しい可能性がある。平衡状態に向かう過程での非平衡な放散、という視点だ。建材のVOC放散測定に使われるチャンバー試験(JIS A 1903等)は一定条件下での測定が前提だが、現実の住空間はつねに非平衡にある。

    【調査メモ】チャンバー試験の条件設定(温度28±1℃、相対湿度50±5%、換気回数1回/h)は、放散の「定常状態」を測るには適切だが、「引き金を引いた瞬間」のピーク放散を捉えるには向いていない。入居者が実際に苦情を言うのは定常状態ではなくピークの瞬間だ、という点で、試験規格と現実の乖離がある気がしている。

    吸放湿性というパラドックスの核心

    建材として石膏ボードを評価する文脈では、吸放湿性は常に「優れた性能」として紹介される。それは正しい。

    しかしその同じ多孔質構造が、悪臭成分・VOCを蓄積する能力の源泉でもある。そして温度・湿度・気圧という外部条件の変化が引き金となって、それらを放出する。

    吸放湿性に優れるとは、外部環境の変化に感応しやすい構造を持つ、ということでもある。

    これは長所と弱点が同一の構造から生まれているというパラドックスだ。そしてこのパラドックスに対して、現時点での業界の標準的な対応——表面塗装、防臭コーティング、活性炭添加——は、いずれも「表面で食い止める」アプローチだ。

    だがすでに内部に蓄積した成分が、外部条件の変化を引き金として放出される現象に対して、表面処理はどこまで有効なのか。

    この問いに対して、明確な答えを持っている資料にはまだ出会えていない。

    解決策を持っているわけではない。ただ、この問いを立てた人間がどれだけいるか、という点は気になっている。


    次に調べたいのは、石膏ボードの細孔内に吸着した成分の「滞留深度」と「放出に要する時間スケール」の関係だ。表層数μmに吸着したものと、数十μm深部に到達したものとでは、外部条件の変化に対する応答速度が異なるはずだ。もしその差が計測可能なら、「なぜ数週間後に急に臭くなるのか」という現場観察の説明に近づけるかもしれない。

    この研究について情報交換・ご連絡は keshisaru-g@keshisaru.com まで。

  • 左官職人が黙って知っていたこと

    去年の秋、大正区の古い物件をリノベするときに、70代の左官職人と二日間一緒に現場にいた。

    その人、ほとんどしゃべらないのに、壁を触っただけで「ここ、湿気が抜けてないな」って言うんだよ。

    私は「え、見ればわかるものですか?」と聞いた。

    「見るんじゃなくて、感じるんです」と言われた。

    そのとき私は正直、「年寄りのカン話か」くらいに思っていた。

    完全に間違っていた。


    その後しばらく経って、消臭の勉強を改めてやり直しているときに、左官の世界で「呼吸する壁」という言い方があることを知った。漆喰や珪藻土でできた壁は、湿気を吸って、乾燥すると放出する。呼吸、というのはそういう意味だ。

    要するに、壁は生きている。

    私はずっと、壁を「固い仕切り」だと思っていた。でも実際には、壁は部屋の湿度を調整しながら、においの分子まで一緒に吸い込んでいる。

    炊き込みご飯を毎週作っている台所を想像してほしい。換気扇を回していても、あの油と醤油のにおいは、壁の中に少しずつ積み重なっていく。表面を拭いても消えないのは当たり前で、においはすでに「中」にいるからだ。

    スポンジを洗わずに絞るだけで、「きれいになった」と思っているのと同じことをずっとやっていた、と気づいたのが3年ほど前。


    左官職人が体で知っていたのは、「壁は一枚のフィルターだ」ということだと、私は今そう解釈している。

    古い物件に入ったとき、パァッと何かがくる感じ、わかる人にはわかると思う。あれは空気のにおいじゃなくて、壁が長年かけて吐き出しているものだ。

    孤独死の現場で何度も消臭をかけてもにおいが戻ってきた経験がある。「よし、これで終わりのはず」と思うたびに戻ってきた。当時は製品の問題だと思っていたけど、違った。壁の中から出てくるものを止めていなかっただけだった。

    左官職人はそれを言葉にはしなかったけど、手で知っていた。

    私は10年かけてようやく、その意味がわかってきた気がしている。

    → もっと詳しく知りたい人は研究記事へ

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