カテゴリー: 入口記事

  • パリの石膏——ヨーロッパの壁はなぜ「息をする」のか

    去年の秋、パリに行く機会があった。

    観光ではなく、建材の視察という名目だったが、正直なところ半分は個人的な好奇心だった。

    モンマルトルの丘の裏側を歩いていたとき、古いアパルトマンの壁が崩れかけているのを見た。外壁の漆喰がめくれて、中から白っぽい層が顔を出していた。

    「あ、これだ」と思った。

    石膏だった。


    モンマルトルという地名を知っている人は多いだろう。観光地として有名だ。でも、あの丘の地下にかつて膨大な量の石膏が眠っていたことを知っている人は、それほど多くない。

    18世紀のパリでは、石膏の採掘が産業として成立していた。丘を掘って、焼いて、粉にして、建物の壁に塗る。要するに「その辺の地面を削って壁を作っていた」ということだ。

    英語で「プラスター・オブ・パリ」と呼ばれる焼き石膏は、文字どおりパリ発祥の素材だった。

    これが大陸ヨーロッパ全体に広まり、19世紀以降は日本にも入ってきた。今、私たちが住んでいるマンションや戸建の内壁に使われている「石膏ボード」は、この長い系譜の末端にある。


    ここからが本題なのだが、私は長年「石膏ボードは単なる壁の芯材だ」と思っていた。断熱材を包む板、みたいなイメージ。

    でも、それは間違いだった。

    石膏ボードは湿気を吸ったり吐いたりする。「呼吸する」と表現する人もいる。正確には「吸放湿」という。スポンジを部屋に置いているようなものだ、と言えば伝わるだろうか。空気が乾燥すると水分を吐き出し、湿度が高いと吸い込む。

    これは長所だ。部屋の湿度を自然にコントロールしてくれる。ヨーロッパの古い建物が何百年も「住める」状態を保てた理由のひとつが、ここにある。

    ただ——。

    水分だけを吸うわけじゃない、というのが問題で。


    マンションオーナーをやっていた頃、孤独死の後の部屋を何度か引き受けた。専門の業者に頼んで、消臭もして、一見きれいになった。でもしばらくするとニオイが戻ってくる。

    「また戻った」と業者に連絡すると、「もう一度施工します」という話になる。これを何度繰り返しただろうか。

    当時は「消臭剤が弱いのか」と思っていた。でも今は違うことがわかっている。壁が吐き出しているのだ。

    石膏ボードが吸い込んだ匂いの分子が、温度や湿度の変化をきっかけに少しずつ放出される。だから「消えた」と思ったニオイが戻る。表面だけきれいにしても、壁の中に残っている限り、終わらない。

    パリの石膏職人が「この素材は呼吸する」と言ったとき、彼らはそれを誇りに思っていただろう。吸って、吐いて、部屋の空気を整える。それは正しい。

    ただ、吐き出すものが何かによって、話は変わってくる。

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  • 新築なのに前の住人の臭いがする謎

    去年の秋、知り合いの不動産業者からこんな話を聞いた。

    「河合さん、新築マンションに入居した客から『前の人の臭いがする』ってクレームが来たんですよ。でも新築ですよ。前の人なんていないんです。」

    最初、私は笑って「それは気のせいじゃないか」と言いかけた。でも途中で止まった。

    待てよ、と。

    実はこれ、笑い飛ばせない話だと気づいたのは、自分がマンションオーナーをやっていたときの経験があるからだ。退去後にリフォームを済ませた部屋に内見に来たお客さんが、ドアを開けた瞬間に「何か……古い感じがする」と言って帰ってしまったことが何度かある。壁は塗り替えた。床も貼り替えた。なのになぜ。

    当時の私は「古い建物だから仕方ない」と思っていた。これが間違いだった。


    石膏ボード、という建材を知っているだろうか。

    日本の住宅の壁の中身は、ほとんどこれだ。クロス(壁紙)の裏に、厚さ数センチの白い板が貼られている。硫酸カルシウムを固めたもので、防火性能があって、安くて、施工もしやすい。非常によくできた材料だ。

    この石膏ボード、実は空気中の水分を吸ったり吐いたりする。「呼吸する壁」と表現されることもある。

    問題はここだ。

    呼吸するということは、空気の中にあるあらゆるものを一緒に吸い込む。湿気だけじゃない。タバコの煙の成分、料理の油分、体臭が混ざった空気中の揮発性物質、要するにVOC(volatile organic compounds)と呼ばれる細かい化学物質も、壁の中にじわじわと取り込まれていく。スポンジが水を吸うように、静かに、何年もかけて。

    で、クロスを張り替えるとどうなるか。

    表面は新しくなる。でも石膏ボードの中に染み込んだ成分はそのまま残っている。しかも新しいクロスを貼った直後は接着剤の揮発もあるし、温度が上がれば壁から成分が「放出」される。モワッと出てくる、あれだ。

    カレーを作った翌日、部屋の壁がなんとなくスパイスの香りをまとっていることがある。あれと仕組みとしては近い。壁が吸って、条件が揃ったら吐く。


    では「新築」の場合はどうか。ここが面白い。

    新築マンションでも、石膏ボードの製造・保管・施工の過程で、工場や倉庫の環境臭が染み込むことがある。木材を使う部分があれば、木の樹脂や接着剤の成分もある。さらに言えば、工事中の職人が数十人単位で数カ月間作業しているわけで、その人たちの体臭や作業服の臭い、昼飯の臭いが、まだ「素の状態」の石膏ボードに吸われ続けている。

    「前の住人の臭い」と感じたものは、前の住人ではなく、壁が建物全体の歴史を吸い込んできた結果だった。

    言い方を変えると、壁はずっと日記をつけていた。

    そこに住んだ人間の記録を、粛々と体内に書き溜めていたわけだ。クロスを張り替えても、表紙を替えただけで中身は変わっていない。

    私がケシサルJapan株式会社を立ち上げた出発点は、まさにこの「なぜ消臭しても戻るのか」という疑問だった。消臭剤で消したつもりが、また出てくる。その繰り返しの正体を追いかけているうちに、壁という存在に行き着いた。

    まだ答えが全部出ているわけじゃない。でも「なんとなく古い感じ」の正体は、想像していたより深いところにあると今は確信している。

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  • ペットの臭いが壁に染みつく本当の理由

    去年の秋、堺市内にある自分のマンションの一室で、退去立会いをしたときのことだ。

    「猫を飼っていた部屋です」と不動産屋から聞いていた。ドアを開けた瞬間、モワッと来た。あの独特の、鼻の奥に引っかかるような臭い。

    問題は、その部屋にもう猫がいないことだった。1ヶ月前に退去している。換気もしていた。なのにまだそこにいる。

    「消臭スプレーを何度もかけた」とオーナーから聞いていたが、臭いは消えていなかった。私も昔、同じことをやっていた。スプレーして、しばらくは消えたように感じる。でも翌朝、また戻っている。あれは何なのか、当時は本当に謎だった。

    正直に言うと、ずっと「臭いが壁に染みた」という表現を使ってきたけれど、その「染みる」という仕組みを、自分はちゃんと理解していなかった。

    ペットの臭い成分は、気体として空気中を漂っている。アンモニア、アミン類、揮発性の有機化合物。要するに、小さな臭い分子がふわふわと部屋中を移動しているわけだ。

    で、これが壁にぶつかる。

    壁というのは、ただそこに立っているだけじゃない。特に日本の住宅でよく使われているクロスや、その下の石膏ボードは、湿気を吸ったり吐いたりする性質を持っている。呼吸している、と言われる。

    呼吸しているということは、臭い分子も一緒に吸い込む。

    料理の例で考えてほしい。焼き魚をした翌日、キッチンの壁をちょっと濡れた手で触ると、なんとなく脂っぽい感触があることがある。あれは魚の油分が少しずつ壁に入り込んでいるからだ。臭い分子でも同じことが起きている。空気中を漂いながら、少しずつ、毎日少しずつ、壁の内側に取り込まれていく。

    表面に乗っているうちなら、まだ消せる。でも「内側に入ってしまった」臭いは、表面に消臭剤をかけても届かない。

    スプレーして一瞬消えたように感じるのは、表面の臭いだけを一時的に抑えているからだ。内側に入った分子は、気温が上がったり湿度が変わったりするタイミングで、じわじわ外に出てくる。「よし、これで消えた」と思っていたのに翌朝また戻っている、あの現象はこれだ。

    私が長年「なぜ臭いが戻るのか」という疑問を持ち続けてきたのも、このメカニズムを知らなかったからだ。消し方を間違えていたのではなく、そもそも「何を消すか」の理解が間違えていた。

    臭いが表面にあるのか、壁の内部まで入っているのかによって、やるべきことはまったく変わる。

    ペットを飼っている部屋の壁は、日々その積み重ねの中にある。猫がいなくなっても、臭いが残るのはそういう理由だ。

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  • 梅雨になると臭いが戻る理由、やっと分かった

    去年の6月、天満のマンションの一室でそれを確認した。

    前の年の秋に特殊清掃を入れて、消臭施工も終えて、冬の間はまったく何も感じなかった部屋だ。入居者も「大丈夫ですか」と聞いたら「全然問題ありません」と言っていた。なのに梅雨に入った途端、廊下に立っただけでモワッとした。

    正直、頭が真っ白になった。

    「消えた」と思っていたのに、戻ってくる。これが何年も続いた謎だった。以前の私は「施工が甘かったんだろう」と自分を責めるか、「業者の腕が悪い」と外に原因を探していた。でも、それは違った。

    問題は、壁そのものにあった。

    室内の壁の多くは石膏ボードでできている。この素材は湿気を吸ったり吐いたりする。それ自体はすごい機能で、じめじめした日本の気候に適応した賢い建材だと私は思っている。呼吸している、と言っていい。

    ただ、呼吸というのは空気だけを選んでくれない。匂いの分子も、一緒に吸い込む。

    要するに——臭いは「消えた」のではなく、「壁に眠っていた」だけだった。

    冬は乾燥しているから、壁は匂いの分子をギュッと閉じ込めたまま動かない。それで「消えた」と錯覚する。梅雨になって湿度が上がると、壁が一斉に水分を吸い始める。そのとき、眠っていた分子が一緒に吐き出される。パァッと、部屋の中に放出される。

    たとえるなら、冷凍した魚を解凍するとニオイが出てくるのに似ている。消えていたわけじゃなくて、温度が低い間は動いていなかっただけ。梅雨の湿気が、冷凍庫から出したときの「室温」と同じ役割を果たす。

    これを知ったとき、私は「10年、何をやっていたんだ」と思った。表面を消臭するだけでは、壁の奥に蓄積されたものには届かない。梅雨という季節は、ごまかしを暴く装置として毎年やってくる。

    「湿度が高い日に臭いが戻る」という経験のある人は、表面の問題じゃないと疑ってみてほしい。壁が呼吸している、その事実から考え直す必要がある。

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  • タバコのヤニはなぜ壁から離れないのか

    去年の秋、大阪市内にある自分の物件で退去後の部屋を確認したとき、壁紙を少しめくってみた。

    クロスの裏側が、薄茶色に染まっていた。

    「ああ、またか」と思いながらも、ふと疑問が湧いた。
    クロスって、表面が汚れるのは分かる。でも、なんで裏側まで?

    そこから調べ始めて、自分がずっと誤解していたことに気づいた。


    以前、私はタバコのヤニを「油汚れの一種」だと思っていた。だから「強いアルカリの洗剤で拭けばいい」という話を聞いて、それが正解だと信じていた。実際、表面の黄ばみはある程度落ちる。でも翌月にはまたニオイが戻ってくる。「施工業者がちゃんと拭いてないんだろう」と思って、何度か怒ったこともある。

    全部、的外れだった。

    タバコの煙に含まれる成分は、ニコチン・タール・VOC(揮発性有機化合物)など、数百種類にのぼると言われている。要するに、ものすごく細かい粒子と気体が混じった「複合汚染」なのだ。

    油汚れのような「表面に付着して固まる」という動きとは、根本的に違う。


    分かりやすく言うと、出汁を長年使い続けた木製のまな板を想像してほしい。表面を何度洗っても、木の内部に染み込んだニオイは取れない。タバコと壁の関係はあれに近い。

    壁の内側、特に石膏ボードは湿気を吸ったり吐いたりする性質がある。「呼吸する素材」などと言われる。空気調整の機能としては優秀なのだが、この「吸う」という動作が曲者で、タバコの分子もいっしょに引き込んでしまう。

    クロスを何枚張り替えても、壁の奥にある石膏ボードにヤニが染み込んでいれば、また少しずつ滲み出てくる。「モワッと甘ったるい、あの感じ」の正体がそれだ。

    「よし、クロス張り替えたから完璧なはず」と思ったら、入居者から「なんかタバコ臭い」と連絡が来る。私も経験した。あれは業者の手抜きでも何でもなく、構造上の問題だった。


    もう一つ、見落としがちなポイントがある。

    ヤニは「壁に当たって固まる」だけでなく、天井・エアコン内部・換気口のダクト・窓枠の溝など、空気が流れるルート全体に蓄積する。吸う→流れる→どこかに溜まる、という循環が部屋の中でずっと続いている。

    だから一箇所だけキレイにしても、残りの箇所から揮発が続く。

    パァッと消えてくれればいいのに、そうはいかない理由がここにある。

    ケシサルJapan株式会社でこのテーマを研究し始めたのも、元をたどればこの「なぜ戻るのか」という問いが出発点だった。表面を拭くことと、内部に染み込んだものを無力化することは、全く別の作業だ。その違いが分かってから、見え方がかなり変わった。

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  • 畳と土壁は、最初から消臭していた

    去年の秋、京都の町家を改装した宿の現場に立ち会う機会があった。築80年以上。壁をはがしたら、土壁が出てきた。

    職人さんが「ここ、においしませんよね」と言った。

    確かにしなかった。80年以上人が住んでいたのに。

    そのとき私は「古い家って乾燥してるからじゃないの」くらいにしか思っていなかった。正直、そこで思考が止まっていた。でも後になって調べるほど、あの「においしない」には、ちゃんとした理由があったと分かった。

    土壁の主成分は粘土と砂と藁。この中に無数の微細な孔(あな)がある。要するに、スポンジみたいな構造だ。においの分子が空気中に漂っていると、この孔に吸い込まれる。壁全体が巨大な吸着フィルターとして機能していた、ということになる。

    畳も似ている。イグサには「フラボノイド」という成分が含まれていて、これが消臭に働く。しかも多孔質。新品の畳が妙にいい匂いで、しかも部屋がすっきり感じるのは、雰囲気だけじゃなくて化学的な根拠がある。

    ここで「以前の自分」の話をしたい。

    マンションオーナーをやっていた頃、私は「古い和室はにおいが染みついて厄介」だと思っていた。和室の退去後は畳を替えて、壁を塗り替えて、それで「リセット完了」という感覚だった。

    完全に逆だった。

    畳も土壁も、長年かけてにおいを吸い続けてきた結果、限界を超えると一気に放出する。要するに飽和状態だ。炊き込みご飯を作り続けた木製のしゃもじが、ある日突然カビ臭くなる感じに近い。吸っていたものが出てくる。

    だから「においが戻る」現象が起きる。

    私がケシサルJapan株式会社を立ち上げるきっかけになった疑問のひとつが、まさにこれだった。消臭したはずなのに、数日後にまた臭い。あれは壁や床が「吸ったものを吐いていた」んだと、今ならわかる。

    面白いのは、土壁も畳も、本来は「吸って、乾いたら放す」という呼吸サイクルを持っていたことだ。においも湿気も、適切に換気された環境では拡散されて問題にならなかった。でも気密性が上がった現代の住宅に昔の素材を残すと、放す先がなくなる。

    閉じた瓶の中でスポンジを絞っても、水は逃げない。

    そういう話だ。

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  • 昭和の家の匂いは、壁が記憶していた

    先月、堺市のある解体予定の物件に立ち入る機会があった。昭和40年代に建てられた一戸建て。玄関を開けた瞬間、あの匂いが来た。

    あの匂い、というのが難しい。ホコリでもない。カビでもない。腐敗でもない。なんというか、「時間の匂い」とでも言うしかないような、あの感じだ。

    「懐かしい」と思う人が多いのが、また面白い。

    私も最初は「古い家はこういうもの」だと思っていた。木が古くなったからとか、畳が湿気を吸ったからとか、そういうざっくりした話で納得していた。でも、それって本当に正確な説明なのか?

    結論から言う。昭和の家の「あの匂い」の正体は、かなりの部分が壁に吸収・蓄積された生活臭の総体だ。

    たとえ話をする。お気に入りのジャケットを、毎日焼き魚の食卓の近くにかけておいたとする。1日では何も変わらない。1週間でも気づかないかもしれない。でも1年後、そのジャケットはもう「焼き魚のジャケット」になっている。繊維が香りの分子を少しずつ取り込んでいくからだ。

    家の壁も、まったく同じことをしている。

    特に昭和の住宅に多い漆喰や砂壁、あるいは珪藻土系の塗り壁は、湿気を吸って吐く「呼吸する壁」だ。この吸放湿機能は優れた特性で、日本の気候に本当によく合っている。ただ、湿気と一緒に、生活の中で発生する匂いの分子も吸い込んでいる。タバコ。醤油。魚。灯油ストーブの煙。人の体臭。それが何十年分も、層になって壁の内側に残っている。

    要するに、壁が生活を記録し続けていた、ということだ。

    私が以前間違えていたのは、「匂いは空気中にある」と思い込んでいたことだった。換気すれば消える、掃除すれば消える、と。でも実際には匂いの多くは固体の表面や内部にある。空気中にあるのはそこから「揮発してきた分」だけで、揮発元が残っている限り、匂いはまた戻ってくる。

    モワッと来る。窓を開ける。しばらくマシになる。でも翌朝にはまた戻っている。

    あの現象の正体がこれだ。

    解体現場でその匂いを嗅ぎながら、「これ、何十年分の夕飯の匂いなんだろう」と思った。悪臭でも何でもない。ただ、その家族の時間が染み出してきている感じがして、少し黙ってしまった。

    昭和の家の匂いを「懐かしい」と感じる人が多いのは、つまりそういうことだと思う。匂いを記憶する壁と、その匂いを懐かしむ人間。どちらも「溜め込む」のが得意だ。

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  • 壁の中身はスポンジより細かい——ナノの穴の話

    去年の夏、大阪市内で管理しているマンションの一室に入った瞬間、モワッとした。

    空室のはずなのに、なんというか、前の住人がまだそこにいるような感覚。エアコンをつけても、換気してもなかなか消えなかった。

    「壁を拭けば取れるだろう」と思っていた時期が、私にも長かった。表面を綺麗にすればいい、と。でも実際は全然違った。


    壁紙の裏に石膏ボードがある。これは知っている人も多いと思う。ではその石膏ボードの中身がどうなっているか、考えたことはあるだろうか。

    石膏という素材、要するに硫酸カルシウムという鉱物を固めたものなのだが、これが固まる過程でものすごく細かい穴が無数にできる。スポンジの穴ではない。ナノメートル単位の穴だ。

    1ナノメートルというのは、1ミリの百万分の一。そんな穴が壁の中にぎっしりある。

    要するに、家の壁はミクロで見ると穴だらけの構造をしている。


    これを知ったとき、私が最初に思ったのは「海綿(かいめん)みたいだな」だった。水族館で見るあの生き物。あれも全身が無数の小穴でできていて、水をどんどん取り込む。石膏ボードはそれのもっと細かいバージョン、と思えばイメージしやすい。

    そしてこの穴が、湿気を吸ったり吐いたりする。「呼吸する壁」なんて言い方もする。湿度が高い日は吸って、乾燥した日は吐き出す。これ自体はすごく良い機能で、快適な住環境を作る一因にもなっている。

    ただ。

    ここが面白いところなのだが、壁が吸い込むのは水分だけじゃない。


    においの分子も、一緒に吸い込む。

    タバコ、料理、体臭、そしてもっと強烈なもの。あのモワッとした空気の中に漂っていたものが、少しずつ、少しずつ壁の奥に入り込んでいる。

    表面を拭いても消えない理由が、ここにある。拭けるのはあくまで「表面」だけ。ナノの穴の中に入り込んだものには、普通の方法では届かない。

    「よし、これで取れたはず」と何度思ったか。そのたびにしばらくして臭いが戻ってくる。あの感覚が、今は説明できる。


    壁は「面」じゃない。「塊」だ。ナノの穴を持った、奥行きのある塊。そう思い直してから、ニオイの問題への向き合い方がガラッと変わった。

    ケシサルJapan株式会社で研究を続けているのも、結局はその「奥」にどうアクセスするか、というところに尽きる。それだけの話なのだけど、これがなかなか難しい。

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  • リフォームしても臭いが戻る本当の理由

    去年の夏、堺市のマンションで現場確認をした。

    孤独死のあった部屋で、オーナーさんが特殊清掃業者に頼んで、仕上げにリフォームまでやっていた。壁紙を全部張り替えて、床も貼り直して、費用は80万近くかかったと聞いた。

    それでも、夏になると臭いが戻ってきた。

    「リフォームしたのに、なぜ」というのが、オーナーさんの最初の言葉だった。私もマンションをいくつか持っていたので、この感覚はよくわかる。以前は私も「壁紙を替えれば解決する」と思っていた。完全に間違いだった。

    壁紙の裏には、石膏ボードというものがある。

    読んで字のごとく、石膏(硫酸カルシウム)でできた板だ。軽くて火に強くて、日本の建物のほぼどこにでも使われている優秀な素材だ。この石膏ボード、実は「呼吸している」。湿気を吸ったり吐いたりする性質がある。それが断熱や調湿に役立っているわけで、本来は長所だ。

    ただ、そこに落とし穴がある。

    臭いの原因になる分子——腐敗臭の成分や揮発性の化学物質、VOCと呼ばれるもの——は、石膏ボードに湿気と一緒に少しずつ吸い込まれていく。要するに、壁の中に臭いが染み込んでいく、ということだ。スポンジに醤油がしみるのと似ている。表面を拭いても、しみた中のものは残る。

    壁紙を替えることは、そのスポンジの表面に新しいラップを貼ることに近い。

    だから、冬は大丈夫だった、という話をよく聞く。夏になったら戻ってきた——これは気温が上がって石膏ボードが吸っていたものを吐き出し始めるからだと考えられる。「よし、これで終わった」と思っていたのに、蒸し暑くなった途端にモワッと戻ってくる。あの感覚を経験したオーナーは何人もいる。

    では、壁を全部剥がせばいいか。

    現実的には無理だ。費用がかさむし、構造に関わることもある。だいたいのリフォーム業者は「もう一度張り替えますか」くらいしか提案してくれない。それで解決した話は、私の周りでは聞いたことがない。

    このあたりが、消臭というテーマのいちばん厄介なところだと私は思っている。表面だけきれいにしても、臭いの根っこが壁の中に残っている限り、季節が変わればまた出てくる。

    ケシサルJapan株式会社でこの問題を研究し始めたのも、もともとは自分のマンションで同じことを経験したからだ。10年以上、「なぜ戻ってくるのか」を考え続けている。答えはまだ全部出ていないと思っている。

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  • あなたの家の壁は何十年分の記憶を持っている

    去年の秋、大阪市内の築32年のマンションを内見したときのことだ。

    玄関を開けた瞬間、何とも言えない空気が来た。カビでもない。腐敗でもない。でも確かに「人が長く住んでいた場所の匂い」がした。リフォーム済みで壁紙は真っ白だったのに。

    あのとき私は「壁紙を替えたのに、なぜ?」と思った。
    今なら答えられる。


    壁紙の下には石膏ボードがある。日本の住宅の内壁のほとんどがそうだ。この石膏ボードという素材、実は「呼吸する」。湿気を吸ったり放したりする性質を持っていて、それが快適な室内環境をつくる立役者でもある。

    でも。

    呼吸するということは、空気中を漂うものを一緒に吸い込むということでもある。

    料理の油煙、タバコの煙、汗の蒸気、ペットの体臭、人が毎日呼吸して吐き出すもの。それらが何年も、何十年も、ゆっくりと壁の内側に蓄積されていく。要するに、壁はその家で起きたことを、空気の形で記録し続けているということだ。

    スポンジを想像してほしい。使い古したスポンジを水で洗っても、長年染み込んだ油の匂いは消えない。石膏ボードがやっていることは、あれとよく似ている。


    以前の私は「消臭といえば表面に吹き付けるもの」だと思っていた。マンションオーナーをやっていた頃、退去後の部屋に市販の消臭スプレーをかけて「これで大丈夫」とやっていた時期がある。恥ずかしながら、本当に信じていた。

    でも、また匂いが戻ってくる。
    何度やっても、戻ってくる。

    「よし、これで合ってるはず」と何度思ったか分からない。それが全部、壁の内部に残ったものが再び放出されていたせいだと気づくのに、かなりの時間がかかった。

    壁紙を剥がしても、塗料を塗っても、表面を変えても、石膏ボードの内部に染み込んだ分子はそのまま残る。新しい壁紙は匂いを封印しているだけで、条件が揃えばまたモワッと出てくる。夏場に室温が上がったとき、梅雨で湿度が高くなったとき。壁が「記憶を放出する」タイミングがある。


    ここで一つ、聞いてみたい。

    あなたの家の壁は、何年前に建てられたものか、把握しているだろうか。

    築10年なら10年分。築30年なら30年分。毎日その家で暮らした人たちの、ありとあらゆる生活の痕跡が、壁の内部に層になって積み重なっている。それはリフォームで見た目が変わっても、簡単には消えない。

    消臭の問題を表面だけの話だと思っていると、いつまでも匂いが戻ってくる理由が分からないまま終わる。私がそうだったから、断言できる。

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