カテゴリー: 入口記事

  • 壁の中身はスポンジより細かい——ナノの穴の話

    去年の夏、大阪市内で管理しているマンションの一室に入った瞬間、モワッとした。

    空室のはずなのに、なんというか、前の住人がまだそこにいるような感覚。エアコンをつけても、換気してもなかなか消えなかった。

    「壁を拭けば取れるだろう」と思っていた時期が、私にも長かった。表面を綺麗にすればいい、と。でも実際は全然違った。


    壁紙の裏に石膏ボードがある。これは知っている人も多いと思う。ではその石膏ボードの中身がどうなっているか、考えたことはあるだろうか。

    石膏という素材、要するに硫酸カルシウムという鉱物を固めたものなのだが、これが固まる過程でものすごく細かい穴が無数にできる。スポンジの穴ではない。ナノメートル単位の穴だ。

    1ナノメートルというのは、1ミリの百万分の一。そんな穴が壁の中にぎっしりある。

    要するに、家の壁はミクロで見ると穴だらけの構造をしている。


    これを知ったとき、私が最初に思ったのは「海綿(かいめん)みたいだな」だった。水族館で見るあの生き物。あれも全身が無数の小穴でできていて、水をどんどん取り込む。石膏ボードはそれのもっと細かいバージョン、と思えばイメージしやすい。

    そしてこの穴が、湿気を吸ったり吐いたりする。「呼吸する壁」なんて言い方もする。湿度が高い日は吸って、乾燥した日は吐き出す。これ自体はすごく良い機能で、快適な住環境を作る一因にもなっている。

    ただ。

    ここが面白いところなのだが、壁が吸い込むのは水分だけじゃない。


    においの分子も、一緒に吸い込む。

    タバコ、料理、体臭、そしてもっと強烈なもの。あのモワッとした空気の中に漂っていたものが、少しずつ、少しずつ壁の奥に入り込んでいる。

    表面を拭いても消えない理由が、ここにある。拭けるのはあくまで「表面」だけ。ナノの穴の中に入り込んだものには、普通の方法では届かない。

    「よし、これで取れたはず」と何度思ったか。そのたびにしばらくして臭いが戻ってくる。あの感覚が、今は説明できる。


    壁は「面」じゃない。「塊」だ。ナノの穴を持った、奥行きのある塊。そう思い直してから、ニオイの問題への向き合い方がガラッと変わった。

    ケシサルJapan株式会社で研究を続けているのも、結局はその「奥」にどうアクセスするか、というところに尽きる。それだけの話なのだけど、これがなかなか難しい。

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  • リフォームしても臭いが戻る本当の理由

    去年の夏、堺市のマンションで現場確認をした。

    孤独死のあった部屋で、オーナーさんが特殊清掃業者に頼んで、仕上げにリフォームまでやっていた。壁紙を全部張り替えて、床も貼り直して、費用は80万近くかかったと聞いた。

    それでも、夏になると臭いが戻ってきた。

    「リフォームしたのに、なぜ」というのが、オーナーさんの最初の言葉だった。私もマンションをいくつか持っていたので、この感覚はよくわかる。以前は私も「壁紙を替えれば解決する」と思っていた。完全に間違いだった。

    壁紙の裏には、石膏ボードというものがある。

    読んで字のごとく、石膏(硫酸カルシウム)でできた板だ。軽くて火に強くて、日本の建物のほぼどこにでも使われている優秀な素材だ。この石膏ボード、実は「呼吸している」。湿気を吸ったり吐いたりする性質がある。それが断熱や調湿に役立っているわけで、本来は長所だ。

    ただ、そこに落とし穴がある。

    臭いの原因になる分子——腐敗臭の成分や揮発性の化学物質、VOCと呼ばれるもの——は、石膏ボードに湿気と一緒に少しずつ吸い込まれていく。要するに、壁の中に臭いが染み込んでいく、ということだ。スポンジに醤油がしみるのと似ている。表面を拭いても、しみた中のものは残る。

    壁紙を替えることは、そのスポンジの表面に新しいラップを貼ることに近い。

    だから、冬は大丈夫だった、という話をよく聞く。夏になったら戻ってきた——これは気温が上がって石膏ボードが吸っていたものを吐き出し始めるからだと考えられる。「よし、これで終わった」と思っていたのに、蒸し暑くなった途端にモワッと戻ってくる。あの感覚を経験したオーナーは何人もいる。

    では、壁を全部剥がせばいいか。

    現実的には無理だ。費用がかさむし、構造に関わることもある。だいたいのリフォーム業者は「もう一度張り替えますか」くらいしか提案してくれない。それで解決した話は、私の周りでは聞いたことがない。

    このあたりが、消臭というテーマのいちばん厄介なところだと私は思っている。表面だけきれいにしても、臭いの根っこが壁の中に残っている限り、季節が変わればまた出てくる。

    ケシサルJapan株式会社でこの問題を研究し始めたのも、もともとは自分のマンションで同じことを経験したからだ。10年以上、「なぜ戻ってくるのか」を考え続けている。答えはまだ全部出ていないと思っている。

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  • あなたの家の壁は何十年分の記憶を持っている

    去年の秋、大阪市内の築32年のマンションを内見したときのことだ。

    玄関を開けた瞬間、何とも言えない空気が来た。カビでもない。腐敗でもない。でも確かに「人が長く住んでいた場所の匂い」がした。リフォーム済みで壁紙は真っ白だったのに。

    あのとき私は「壁紙を替えたのに、なぜ?」と思った。
    今なら答えられる。


    壁紙の下には石膏ボードがある。日本の住宅の内壁のほとんどがそうだ。この石膏ボードという素材、実は「呼吸する」。湿気を吸ったり放したりする性質を持っていて、それが快適な室内環境をつくる立役者でもある。

    でも。

    呼吸するということは、空気中を漂うものを一緒に吸い込むということでもある。

    料理の油煙、タバコの煙、汗の蒸気、ペットの体臭、人が毎日呼吸して吐き出すもの。それらが何年も、何十年も、ゆっくりと壁の内側に蓄積されていく。要するに、壁はその家で起きたことを、空気の形で記録し続けているということだ。

    スポンジを想像してほしい。使い古したスポンジを水で洗っても、長年染み込んだ油の匂いは消えない。石膏ボードがやっていることは、あれとよく似ている。


    以前の私は「消臭といえば表面に吹き付けるもの」だと思っていた。マンションオーナーをやっていた頃、退去後の部屋に市販の消臭スプレーをかけて「これで大丈夫」とやっていた時期がある。恥ずかしながら、本当に信じていた。

    でも、また匂いが戻ってくる。
    何度やっても、戻ってくる。

    「よし、これで合ってるはず」と何度思ったか分からない。それが全部、壁の内部に残ったものが再び放出されていたせいだと気づくのに、かなりの時間がかかった。

    壁紙を剥がしても、塗料を塗っても、表面を変えても、石膏ボードの内部に染み込んだ分子はそのまま残る。新しい壁紙は匂いを封印しているだけで、条件が揃えばまたモワッと出てくる。夏場に室温が上がったとき、梅雨で湿度が高くなったとき。壁が「記憶を放出する」タイミングがある。


    ここで一つ、聞いてみたい。

    あなたの家の壁は、何年前に建てられたものか、把握しているだろうか。

    築10年なら10年分。築30年なら30年分。毎日その家で暮らした人たちの、ありとあらゆる生活の痕跡が、壁の内部に層になって積み重なっている。それはリフォームで見た目が変わっても、簡単には消えない。

    消臭の問題を表面だけの話だと思っていると、いつまでも匂いが戻ってくる理由が分からないまま終わる。私がそうだったから、断言できる。

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  • 壁1㎡の中に、東京ドーム何個分の穴が開いている

    先月、堺市のマンションで壁紙の張り替え工事に立ち会った。

    職人さんが石膏ボードの断面をカッターで切ったとき、断面がものすごく細かい粒粒で構成されているのが見えた。砂糖を固めたような感じ、とでも言えばいいか。「これ、スカスカじゃないですか」と思わず声に出してしまった。

    以前は、壁というのは「固体の板」だと思っていた。触れば硬いし、叩けばコツコツ鳴る。固体=隙間がない、という思い込みが自分の中にずっとあった。

    でも本当にそうなのか?

    石膏ボードを顕微鏡レベルで見ると、無数の微細孔が走っている。要するに、表面は「面」ではなく「穴だらけのスポンジ状の構造」だということだ。平らに見えているのは目が粗いだけで、ミクロで見れば洞窟が密集している。

    では、壁1㎡の本当の表面積はどれくらいか。

    材料科学の研究では、多孔質素材の「真の表面積」は外から見える面積の数万倍から数十万倍になることがある。計算の仮定によって数字は変わるが、石膏ボード1㎡の真の表面積が数千㎡に達するという話は、素材の世界では珍しくない。

    東京ドームのグラウンド面積が約1.3万㎡。

    つまり壁1枚の中に、それに匹敵するような表面積が折り畳まれている可能性がある。「かもしれない」と書きたいところだが、数字の桁が合っているのだから、事実として向き合うしかない。

    カステラを想像してほしい。外から見れば長方形の一塊だが、断面には無数の気泡がある。あの気泡の内壁をすべて広げたら、外から見た表面積の何倍になるか。石膏ボードで起きているのはそれと同じことで、しかも気泡の大きさがカステラより遥かに小さい分、表面積の倍率はケタ違いになる。

    「で、それが何なの?」と思う人がいるのはわかる。

    匂いの分子は、この無数の穴に入り込む。

    タバコのヤニでも、孤独死の現場のニオイでも、揮発した成分は空気中を漂った後、行き場を求めてこの微細孔に潜り込む。表面積が大きいほど、吸い込める量も増える。東京ドーム何個分の内壁に、ニオイの分子が貼り付いているとしたら——消臭スプレーを壁の表面にシュッとかけるだけで解決しようとしていた自分が、いかに的外れだったか。

    「よし、これで消えたはず」と思っていた。何度も。

    そのたびに数日後にモワッと戻ってくる理由が、今はわかる。

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  • 封じ込めるとはどういうことか——壁の中で何が起きているのか

    去年の夏、天王寺のマンションで原状回復の立ち会いをした。退去から3週間経っていた部屋だった。

    ドアを開けた瞬間、モワッとくる。

    クロスは張り替え済み。床も新しい。なのにニオイだけが残っている。業者さんが「施工はちゃんとやりましたよ」と困った顔をして言う。そこで私も「そうですね」と答えながら、心の中では「じゃあなんで臭いんだ」とずっと思っていた。

    あれは10年以上前の話だ。当時の私は「封じ込め=新しい層で覆う」だと思い込んでいた。クロスを剥がして、新しいのを貼れば解決する。そういう理解だった。今から思えば、完全に間違えていた。

    「封じ込める」とは何か、と改めて考えると、これがけっこう深い話になる。

    料理で言うと、においの強い食材をラップで包むとする。ラップが薄ければ、においは少しずつ透過する。完全に封じ込めるには、においの分子がそのラップの隙間を通り抜けられない状態を作らないといけない。材質と厚みと、密着度。この三つが揃って初めて「封止」になる。

    壁も、同じ話だ。

    臭気の発生源があったとして、その上からクロスを貼っても、クロスという素材にはそもそも透過性がある。特に布クロスは論外として、ビニールクロスでさえ長期的には分子レベルの移動が起きる。要するに、「見た目を覆うこと」と「ニオイを止めること」はまったく別の話なのだ。

    じゃあ何が本物の「封止」なのか。

    物理的封止という考え方がある。発生源そのものを、においの分子が通過できない素材で物理的に閉じ込める。ここが概念として面白くて、「ニオイを消す」のではなく「ニオイを出さなくする」という発想の転換がある。消臭と封止は、そもそも目的が違う。

    以前の私はここを混同していた。消臭剤を吹いて、クロスを貼れば「対処した」と思っていた。でも発生源が壁の内側にある限り、それは蓋をしただけで、しかも蓋の素材がニオイを止められていない状態だった。当然、しばらくすれば戻る。

    「なんで戻るんだ」と当時は業者のせいにしていた部分もある。正直に書く。今なら分かる。戻るのは当たり前だったのだ。

    壁の内側で何が起きているか、を考えずに「表面だけ綺麗にした」状態では、封止にならない。そういう現場を、私はオーナーとして何度も経験してきた。そしてその経験が、今ケシサルJapan株式会社でやっている研究の出発点になっている。

    物理的封止の具体的なメカニズムと、素材の選び方については、別の研究記事に書いてある。

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  • 匂い分子は壁のどこに隠れているのか

    去年の夏、天王寺のマンションで孤独死があった。

    特殊清掃の業者が入って、床を張り替えて、壁も一度拭いた。「これで大丈夫です」と言われた。確かにその日はそうだった。

    問題は、夏が終わって秋になったころに起きた。入居希望者を案内したら、「なんか、変な匂いがしますね」と言われた。

    私はその場で固まった。


    あの経験から、「消臭したのにニオイが戻る」という現象をずっと追いかけている。以前は単純に「清掃が甘かったんだろう」と思っていた。拭き残しがあったとか、床下まで染みてたとか、そういう話だと思っていた。

    でも、実はそうじゃなかった。

    匂い分子は、壁の「表面」じゃなくて「中」に入り込む。これが問題の本質だった。


    少し構造の話をさせてほしい。

    一般的な室内の壁というのは、大雑把に言うと「クロス(壁紙)+石膏ボード+断熱材+構造体」という層になっている。要するに、玉ねぎみたいに何枚も重なってる。

    で、匂い分子(専門的にはVOCとか悪臭物質と呼ばれる)は、気体だ。気体は隙間があれば入っていく。パンにバターが染み込むように、壁の層と層の間をじわじわと移動する。

    特に石膏ボードは、湿気を吸ったり吐いたりする素材で、これ自体は建材としてとても優れた性質なのだが、その呼吸する仕組みに、匂いの分子も一緒に取り込まれていく。スポンジが水を吸うのと同じ原理だと思えばいい。

    だから表面を拭いただけでは、中に入り込んだ分子には届かない。


    「じゃあなんで時間が経つと出てくるのか」という話をすると、これは温度と湿度の変化が関係している。

    気温が上がったり、湿度が変わったりすると、壁が吸い込んでいた分子を再放出する。秋になって「変な匂いがする」と言われたあの部屋も、おそらくそういうことが起きていた。

    一度吸い込んだものを、壁が吐き出す。

    これを業界では「再放散」と呼んだりする。要するに「隠れていたものが出てきた」ということだ。


    こう書くと「じゃあ壁を全部剥がすしかないの?」という話になりそうだが、そんな極端な話ではない。匂いがどこにどう潜んでいるかを理解すれば、対処の仕方も変わってくる。

    表面だけを攻めていた時代に戻りたくない、というのが正直な気持ちだ。

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  • 乾式工法が日本を変えた日

    去年の秋、堺市の築38年マンションを売却するために内見準備をしていた。

    リフォーム業者と壁を叩きながら回っていたとき、職人さんが「ここ、石膏ボードですわ」と言った。「あ、そうですか」と答えながら、私は正直そのとき何も考えていなかった。

    石膏ボード。当たり前すぎて、疑問に思ったことすらなかった。

    でも後から調べたら、あの「当たり前」が生まれたのは、ほんの50〜60年前の話だと知った。


    昔の日本の内壁は「湿式工法」といって、左官職人が泥や漆喰を何層にも重ねて塗り上げるものだった。乾くまでに何日もかかる。湿気を吸って、吐いて、呼吸する壁だ。手間がかかる分、職人の技術と時間がそのまま壁に詰まっていた。

    それが高度経済成長期に変わった。

    「乾式工法」の登場だ。要するに、あらかじめ工場で作ったパネル(石膏ボードが代表格)を現場で貼り付ける工法のこと。乾かす時間がいらない。職人の腕に左右されない。早い、安い、均質。そういう話だ。

    住宅の大量供給が求められた時代に、これは革命だったのだと思う。


    以前の私は「壁なんて、どれも同じようなもの」と思っていた。

    マンションを買うとき、売るとき、ニオイの問題が起きたとき、壁の「素材」そのものを気にしたことがなかった。でも今は違う。特殊清掃の現場を10年以上経験してきて、ようやく気づいた。ニオイが消えない部屋と消える部屋の差は、清掃の腕だけじゃない。壁の素材と構造に関係している場合がある。

    石膏ボードはスポンジに似ている。

    水分を吸う。ニオイの成分も吸う。表面だけを拭いても、ボードの内部に染み込んだものは取れない。風呂のスポンジを外側だけ絞っても、中がじっとり重いままなのと同じだ。

    乾式工法の壁が「早く、安く、均質に」作れる一方で、こういう弱点も一緒に抱えている。


    「よし、消臭した。合ってるはず」と思った翌週に、モワッとニオイが戻ってくる。

    あの不思議な現象の一端が、実は壁の工法と素材に隠れていたとしたら——。

    私はこの数年、そこをずっと考えている。

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  • 左官職人が黙って知っていたこと

    去年の秋、大正区の古い物件をリノベするときに、70代の左官職人と二日間一緒に現場にいた。

    その人、ほとんどしゃべらないのに、壁を触っただけで「ここ、湿気が抜けてないな」って言うんだよ。

    私は「え、見ればわかるものですか?」と聞いた。

    「見るんじゃなくて、感じるんです」と言われた。

    そのとき私は正直、「年寄りのカン話か」くらいに思っていた。

    完全に間違っていた。


    その後しばらく経って、消臭の勉強を改めてやり直しているときに、左官の世界で「呼吸する壁」という言い方があることを知った。漆喰や珪藻土でできた壁は、湿気を吸って、乾燥すると放出する。呼吸、というのはそういう意味だ。

    要するに、壁は生きている。

    私はずっと、壁を「固い仕切り」だと思っていた。でも実際には、壁は部屋の湿度を調整しながら、においの分子まで一緒に吸い込んでいる。

    炊き込みご飯を毎週作っている台所を想像してほしい。換気扇を回していても、あの油と醤油のにおいは、壁の中に少しずつ積み重なっていく。表面を拭いても消えないのは当たり前で、においはすでに「中」にいるからだ。

    スポンジを洗わずに絞るだけで、「きれいになった」と思っているのと同じことをずっとやっていた、と気づいたのが3年ほど前。


    左官職人が体で知っていたのは、「壁は一枚のフィルターだ」ということだと、私は今そう解釈している。

    古い物件に入ったとき、パァッと何かがくる感じ、わかる人にはわかると思う。あれは空気のにおいじゃなくて、壁が長年かけて吐き出しているものだ。

    孤独死の現場で何度も消臭をかけてもにおいが戻ってきた経験がある。「よし、これで終わりのはず」と思うたびに戻ってきた。当時は製品の問題だと思っていたけど、違った。壁の中から出てくるものを止めていなかっただけだった。

    左官職人はそれを言葉にはしなかったけど、手で知っていた。

    私は10年かけてようやく、その意味がわかってきた気がしている。

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  • ピラミッドの壁と、うちのマンションの壁は同じだった

    去年の夏、入居者が亡くなった部屋の原状回復をしていて、業者の人間から�妙なことを言われた。

    「この壁、石膏ボードですよね。石膏って、実はピラミッドにも使われてたんですよ」

    そんな話、急に言われても。

    でも気になって、その夜ちょっと調べてみた。本当だった。古代エジプトのピラミッドの内壁、あの石の継ぎ目を埋めていた素材が、硫酸カルシウムを主成分とする石膏系の材料だというのだ。要するに、4500年前から人間は「壁を平らにするのに石膏を使っていた」ということになる。

    それを知った瞬間、自分のマンションの壁が急に違って見えた。

    現代の建物の壁は、ほとんどの場合「石膏ボード」が使われている。石膏に紙を貼り合わせた板で、軽くて加工しやすい。コストも安い。だから日本の住宅のほぼすべてに入っている、と言っても大げさではないくらい普及している。自分が持っているマンションも、全室そうだ。

    ここまでは知っていた。

    知らなかったのは、石膏がどういう素材かということだ。

    石膏は多孔質、つまり細かい穴が無数にある。スポンジみたいなもの、と言えばわかりやすいか。湿気も吸う。においも吸う。調湿効果があると言われて、昔は「身体にいい素材だ」と思っていた時期もある。

    でも、吸うということは、溜め込むということでもある。

    「よし、消臭した。これで大丈夫なはず」と思っても、しばらくするとモワッとにおいが戻ってくる。あの感覚、特殊清掃の後に何度経験したかわからない。以前は「業者の消臭が甘かったんだろう」と思っていた。でも実は違った。壁の中に吸い込まれたにおいの分子が、時間をかけてじわじわと放出されていたのだ。

    炊き込みご飯を作った後の鍋を洗い忘れて翌朝開けた時のあの感じ、あれに近い。密閉された空間に、じっくり染み込んだものが出てくる感じ。

    石膏ボードの壁は、においを一度受け取ると、なかなか手放さない。

    ピラミッドの壁が何千年も残っているのは、石膏が安定した素材だからだ。安定しているということは、中に取り込んだものも、簡単には出ていかないということでもある。

    4500年前から変わっていない素材が、自分の部屋の壁に貼ってある。そう思うと、においが「染み付く」という感覚が、急にリアルになった。

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  • パリの石膏——ヨーロッパの壁に何が塗られていたか

    去年の秋、仕事で一度だけパリに行った。観光じゃない。現地のビル管理をやっている知人に会うためだ。

    その知人のオフィスが入っているのが、19世紀に建てられた古いアパルトマンで、壁がやたら白くてツルッとしていた。「これ、何が塗ってあるんですか」と聞いたら、「石膏だよ」と返ってきた。

    石膏。

    そのとき正直に言うと、「石膏って黒板に使う、あの白いやつ?」くらいの認識だった。それが壁に塗ってあるとは思っていなかった。日本の壁はだいたいビニールクロスか塗装だから、感覚がまるで違う。

    で、帰ってきてから少し調べた。

    石膏プラスター、というのがヨーロッパの建物の壁に長く使われてきた素材だ。要するに、硫酸カルシウムという鉱物を焼いて粉にして、水で練って壁に塗ったもの。乾くと固まって、あの白くてなめらかな壁ができる。

    パリの場合、地下にパリ石膏(Plâtre de Paris)と呼ばれる質のいい石膏の鉱脈があった。それを掘って使っていたから、街中の建物に石膏が行き渡っていた。モンマルトルの丘の地下にも採掘跡が残っているらしい。観光で見るあの白い街並みは、そういう地質的な偶然の上に成り立っているわけだ。

    以前は「ヨーロッパの壁って丈夫だな」くらいにしか思っていなかったが、実は違った。石膏プラスターが持っている性質が、あの「壁の感じ」を作り出していた。石膏は適度に湿気を吸って、また放出する。呼吸している、と言うと少し大げさだが、調湿機能がある素材なのだ。冬に暖炉を使う環境で、壁が湿気を緩衝してくれていた、ということになる。

    たとえて言うなら、素焼きの器に近い。陶器だと水が染みないが、素焼きだとじんわり吸う。石膏の壁はあれに似た感じで、空気の湿り気を受け止めている。

    ここで話が少し変わるが、私がマンションで特殊清掃後のニオイ問題に長年頭を悩ませてきたのも、実は壁の素材と無関係じゃないと思っている。コンクリートに直貼りのビニールクロスと、石膏プラスターの壁では、ニオイの残り方がまったく違う。石膏は多孔質だから、ニオイの成分を吸い込む。ただし、同じ理由で、ちゃんと対処すれば出てもいく。ビニールクロスの下で封じ込まれているより、ある意味で素直な素材だと感じている。

    「え、うちのマンションの壁ってそうなってるの?」と思った人へ。日本の集合住宅の多くはビニールクロス仕上げだから、石膏プラスターむき出しの壁はほぼない。ただし、下地に石膏ボードが使われているケースは多い。石膏ボードは石膏を紙で挟んだもので、石膏プラスターとは別物だが、同じ素材系譜にある。その話はまた別の機会に書く。

    今日はまず、「ヨーロッパの壁って石膏だったんだ」という入口だけ。

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